第3回衆議院議員総選挙

実施:1894年(明治27年)3月1日
改選数:300

解散日は1893年12月30日、第二次伊藤内閣の時。
伊藤内閣は外務大臣陸奥宗光の元で、治外法権の解消を図る条約改正をまとめようとしていた。

これに対して、国民協会の主流派である国粋主義者達は
「完全な対等条約以外は認めず、安政条約を忠実に履行すべし」とする「条約励行論」を唱えた。
なお安政条約を忠実に履行すると、外国人は外国人居留地の外への自由な外出が不可能となる。
この条約励行論に、吏党・民党を問わず伊藤内閣に不満を抱く各党派が揃って同調し、対外硬派(硬六派)と呼ばれた。

1893年12月8日、大日本協会主催者の安部井磐根を中心とした多数派による「条約励行建議案」が提出されるが、陸奥らはこれを、条約改正を葬り去ろうとする謀略であると主張し、29日の衆議院本会議で安部井が同案の趣旨を説明している最中に停会が宣言され、翌30日に衆議院解散が行われた。

自由党も硬六派も過半数を得られなかったこと、自由党も政府の緩慢な行政改革に対する批判を継続していたことなどから、伊藤内閣が明確な支持勢力を議会に持たない状況は変わらなかった。そしてわずか3ヶ月後に再度解散を迎えることになる。

 

有権者:440,113
立候補者:729
投票率:88.76%

 

吏党
・国民協会:35
・同士倶楽部:24
・大日本協会:9

民党
・自由党:120
・立憲改進党:60
・同盟倶楽部:18

無所属
・無所属:34

第2回衆議院議員総選挙

実施:1892年(明治25年)2月15日
改選数:300

1890年11月29日、第1回帝国議会が招集され、藩閥による第一次山縣内閣と、「民力休養」を掲げる民党が対立を続けた。政府が面目上、議会解説早々の衆議院解散を望まなかったこともあり、政府は閉会まで持ちこたえたが、次の第1次松方内閣(1891年11月26日閉会)で迎えた第2回議会はこの状況も変わり、12月20日の樺山資紀(かばやますけのり)海軍大臣による「蛮勇演説」をきっかけとして、松方内閣は初めての衆議院解散に踏み切った。

 

内閣:第一次松方正義内閣(第4代)
解散:1891年(明治24年)12月25日
投票:1892年(明治25年)2月15日
選挙制度:小選挙区制
選挙権:直接国税15円以上納税の満25歳以上の男性
有権者数:434,594
立候補者:900

この選挙では、内務省による選挙干渉をきっかけとして各地で支持者と警察の衝突が発生し、以下の数の死傷者が出た。

・高知県:死者10名、負傷者66名
・佐賀県:死者8名、負傷者92名
・福岡県:死者3名、負傷者65名
・千葉県:死者2名、負傷者40名
・熊本県:死者2名、負傷者39名

薩摩出身の松方首相と地元県会の民党議員とが激しく対立していたという地元の事情から、死傷者は薩摩藩や肥後藩出身の知事の府県において大規模に表れた(高知・滋賀の県知事は薩摩藩出身、福岡・千葉の県知事はは肥後藩出身)。

 

投票率:91.59%

吏党
・中央交渉部:81
・独立倶楽部:31
・近畿倶楽部:12
民党
・自由党:94
・立憲改進党:38
無所属
・無所属:44

 

第1回衆議院議員総選挙

実施:1890年(明治23年)7月1日
改選数:300

第3代内閣総理大臣・山県有朋による第一次山縣内閣のもとで行われた。
前年の1989年2月11日に大日本帝国憲法が発布されたが、このとき衆議院議員選挙法も同時に定められている。なお、大日本帝国憲法はこの選挙が実施されたあとの11月29日に施行された。

選挙制度:小選挙区制
被選挙権:士族か平民
選挙権:直接国税15円以上納税の満25歳以上の男性
有権者数:450,872(全人口39,933,478人の約1.13%)

選挙結果
吏党
・大成会:79
・国民自由党:5
民党
・立憲自由党:130
・立憲改進党:41
無所属
・無所属:45

板垣退助率いる立憲自由党が130議席を獲得して第一党となった。